5~6月に旬をむかえる「芍薬(シャクヤク)」。
小さなつぼみからふんわりと開く大輪の花は見ごたえたっぷりで、この季節を楽しみにしている方も多いと思います。
そんな切花のシャクヤクで一番よく見かける品種といえば『サラベル』ではないでしょうか。
淡すぎないピンク色。つぼみにはちょっと濃いピンクの絞りが入ることもあり、シャクヤクらしさのあるエレガントな品種。
ところでこれ、花屋さんでも市場でも、ほとんどの切花関係者は『サラベル』と呼んでいます。
商品についてくるラベルにもほぼ「サラベル」と書いてありますが、本当は『サラ・ベルナール』という品種名なのです…!(あまりにも「サラベル」が定着しすぎていて、サラベルが正式名称だと思っている花屋さんも多いのでは?)
『サラ・ベルナール』は実在したフランスの女優の名前です。今回は、芍薬の名前にもなっているサラ・ベルナールってどんな人なの?を調べてまとめました。
名前の由来は、知れば世界が広がります。
シャクヤクを飾る人・売る人、みんなの知識になれば幸いです。それではいってみましょう!
サラ・ベルナールは19世紀フランスの舞台女優
19世紀末の演劇界で活躍
サラ・ベルナール(1844~1923)は19世紀末フランスの演劇界で活躍した女優。フランスを代表する女優のひとりと言われています。
「サラ」はヘブライ語で「王女」の意。ユダヤ系の出自であるサラは、あえて異教徒的な芸名をつけることで、個性を打ち出そうとしていたようです。
身分が低かった「女優」という職業
17世紀頃から演劇を芸術として向上させようという気運はありましたが、「女優」はまだまだ身分の低い職業でした。
女優は娼婦と紙一重。実際に、パトロンがいなければ生活できなかったり、娼婦のように見られることもあったそうです。(そもそもキリスト教会は「俳優」を職業として認めておらず、宗教儀式への参加はNG。自身の葬儀でさえ廃業しなければ行えなかったそう。それが廃止されたのは1800年代後半のこと)
そんな時代に女優としてのし上がり、人気を得たサラ。私生活も華やかで豪華なふるまいをしており、自由な女性のモデルでもありました。
スキャンダルも多く、差別や批判されることも多かったようですが、それでも今なお語り継がれるわけですから、魅力と実力を備えた人だったのだろうと思います。
フランスだけでなく、世界的な活躍へ
劇団に所属する女優だったサラですが、30代中盤には自分の劇団をつくります。フランスだけの興行にとどまらず、ヨーロッパの各地やアメリカでも公演を行いました。
後年、フランスに自分の劇団の劇場も建てており、経営者としても凄腕だったことがうかがえます。79歳で亡くなるまで、劇団を経営し、舞台にも立ち続けていたサラ。
現代では世界を飛び回って活躍する女性も多くいますが、19世紀の時代に、女優という不安定な身分からここまでのし上がるのはなかなかすごいことですよね。
アール・ヌーヴォーへの影響
広告・写真・メディアの発展の時代
サラが活躍していた時代は、写真がうまれ、メディアが発展した時代とも重なります。
公演の広告を打ち、ポスターを印刷して街に貼り出し、雑誌や新聞に取材される…というようなことが始まった時代です。
舞台だけで見せる「女優」から、いわゆる大衆が見る「スター」のさきがけとなった人だとも言われています。
アール・ヌーヴォーとは
アール・ヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初めにかけて、都市化と産業化を背景に、ヨーロッパに広まった国際的な芸術運動とその様式。 フランス語で「新しい芸術」を意味する言葉です。
花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった(Wikipediaより)
そう、まさにポスターのデザインや舞台衣装、劇場で売るポストカードまで。
サラが自分の劇団を率いて活躍するようになった時代に起こっていた芸術様式がアール・ヌーヴォーなのです。影響がないはずがありませんね。
ミュシャ、ラリックなどを見出した人
美術史でアール・ヌーヴォーの代表作家として必ず名前が挙がる、アルフォンス・ミュシャや、ルネ・ラリックも、サラに仕事をもらっていた人たちです。
サラは自分の舞台公演のポスターをミュシャに依頼し、ミュシャが有名になる足がかりとなりました。
ラリックには舞台で使う宝飾品などを依頼していたそうです。若手アーティストを見出すパトロンのようなものでしょうか。
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サラは芸術が盛り上がる19世紀のフランスに生き、その時代のアーティストたちに多くの影響を与えていたのですね。
芍薬「サラ・ベルナール」が作られたのはいつ?
サラ・ベルナールはフランスの人たちにとって特別な女優であることがわかりました。
芍薬の「サラ・ベルナール」を作り出したのは、ヴィクトール・ルモワーヌというフランスの育種家。彼の生年は1823~1911年ということなので、サラと同時代を生きた人なのですね。
フランスでは1800年代から芍薬や牡丹の育種が行われていたそう。その多くはイギリスが日本や中国から持ち帰ったものです。
最後に:「サラベル」は「サラ・ベルナール」
今回は、芍薬の品種名としても有名な女優「サラ・ベルナール」の生涯を追ってみました。
女優という職業が困難だった時代に、世界的な女優となり、自分の劇団を率いて世界中で公演を成功させる…。想像するだけでさぞ多くの困難があっただろうなあと思います。
決してものすごい美人というわけではないけれど、努力で自分を磨き続けてトップスターになり、今も多くの人の心に残っているのですね。
あの素敵な花に、せっかくこんな素敵な名前がついていて、こんな素敵なストーリーがあるのに!「サラベル」が正式名称だと思ってしまうのはもったいない…!
市場も花屋もつい略語を使ってしまいがちですが、ちゃんと物語を知って花を売りたいなと反省をこめて考えたのでした。(ハナラボも結構最近までサラベルが正式名称かと思っていたよ)
参考図書
サラ・ベルナールの生涯とその時代について、参考にした書籍を貼っておきます。興味のある方はぜひ読んでみてくださいね。
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「サラ・ベルナール メディアと虚構のミューズ」
こちらは現在売っていないようなので、図書館で探すことをおすすめします。当時の文化や風習もよくわかり、読み応えのある論文でした。
シャクヤクの歴史や育種についてはこちらの書籍を参照しました。
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