「お悔やみの花」というジャンルがある。
花屋で働いていると、花は人が亡くなったときに一番使われるなあ、と実感する。花屋って、実はそれがメインの仕事かもしれない(量的な意味ではなく)。
ネアンデルタール人も死者に花をたむけていたというけれど、亡くなった人に花をたむけるのは、ヒトならではの行動なんだろうか。
花屋にいると、「お悔やみの花」エピソードはたくさんある。
亡くなった友人に花を贈りたいと頼みに来て、ほろりと涙をこぼす人。
飼っていた猫が亡くなって、棺に花を敷き詰めたいと花を買いに来た人。
有名な芸能人のお別れ会に、献花の花を買いに来る人たち。(都心で働いていたので、そういうことはよくあった。ZARDの坂井泉水さんにはカラーの花。プロレスラーの三沢光晴さんには緑の花。ファンはみんなよくわかっている)
事故や事件があったとき、現場に花を手向ける人。
みんな居ても立っても居られなくて、花を買いにくる。
先日、叔母が亡くなったとき。
運び込まれた安置所には、造花のアレンジが置いてあった。いつも置いてあるのだろう、白いユリの造花が入ったアレンジメント。
いやー、それは、違うでしょう。
私が花の仕事をしているからではなく、今ここには生花があるべきだと思った。
センスとか、花もちとか、普段気にするようなことは、どうでもいい。亡き人の前には、とにかく、生きた花を供えること。それが大事だと身に沁みた。(翌日にアレンジをつくって届けました)
奥様を亡くした男性が、葬儀の後も定期的に花を買いに来る。
「ほら、もらったアレンジとか、だんだん傷んできちゃうからさ」
送られてきたたくさんのお悔やみの花を、手入れして、水をかえて、枯れた花は抜いて、買ってきた花を足して。
一人になった部屋で、お線香を供えたりしながらそうやって花の手入れをしているんだろうなあ、と想像する。
気を抜いたらぼんやり悲しみに暮れてしまう時期に、適度な「仕事」を与えてくれる生花は、遺された人にとっても必要だ。
どうして、大切な人(動物)が亡くなったとき、人は花を手向けようと思うんだろう。
理由はハッキリとはわからない。でも、たくさんのそういうお客さんを見たし、自分も経験している。生花が一番必要とされるのは、「お悔やみの花」であるのは間違いない。
生花は生鮮品なので、手間がかかる。欲しいものが当日手に入るとは限らない。今は造花のクオリティも高いし、プリザーブドのように保存できる花の技術もある。
それでも。
結婚式は造花のブーケでよくても、お葬式に造花は絶対ない(と、思う)
その1点において、永遠に、花屋の仕事はなくならない(なくしちゃいけない)と思っている。
葬儀ビジネスとかそういう話じゃなくて、人は誰かが亡くなって悲しいとき、生花が必要だから。それは世界の花文化を見ても同じ。全世界共通だ。
亡くなった人に手向ける花は死者のためのものであり、遺された人が気持ちの整理をつけるためのものでもある。
嬉しい顔で受けられる注文じゃないけれど、一番、花屋をやってて意味を感じる瞬間だ。
数年前、長く一緒に暮らしていたモルモットが死んでしまったとき。2月の寒い日で、黄色いフリージアの花を一緒に箱に入れたっけ。
お線香の香りに混じった、フリージアの甘酸っぱい香り。
フリージアの季節が来るたびに思い出す、私の小さな家族。
お悔やみの花はそうやって何年も、遺された人を癒すもの。
生花を手向けて、死者を悼む。悲しみを癒す。その場面に、そっと花を手渡してあげること。
花屋という職業で、一番核心の、大切な仕事だと思うのです。
